DanBaker Posted December 12, 2006 Report Posted December 12, 2006 Hey all, I am chasing as much info as I can get about Masamune and his life (a tough job I know since not all that much is known about him for certain). I understand his original name was Okazaki Goro, and he is also known as Goro Nyudo Masamune (once he became a priest). Oh yeah, and he made some pretty good swords too What I'm looking for is information about his life (or some theories/ educated speculations) and his work and am wondering if anyone knows of any biography sources, university history departments, papers, or other credible/educated sources out there? Of course I’ve done a Google on him and got a ton of anime/final fantasy hits and good ol wikipedia. I'm after something more than just myth/hyped-up legend about him. So if anyone out there can help I’d be much obliged Cheers, Dan Quote
Nobody Posted December 13, 2006 Report Posted December 13, 2006 Do you accept Japanese articles? I know some. Quote
DanBaker Posted December 13, 2006 Author Report Posted December 13, 2006 Japanese articles are good I'll put my Japanese girl friend hard to work in translating since my Kanji is not so good :lol: Thanks!! Quote
Nobody Posted December 13, 2006 Report Posted December 13, 2006 Here it is. This site shows a copy of an article from a newspaper (Nihon Keizai Shinbun-sha). The article was written on the paper from Mar. 11, 2006. Title; Masamune did not exsist? (正宗はいなかった?) http://www.geocities.jp/ntooma/m-masamune0.html http://www.geocities.jp/ntooma/m-masamune1.html http://www.geocities.jp/ntooma/m-masamune2.html http://www.geocities.jp/ntooma/m-masamune3.html Though there might be an English version, I could not find it. Quote
kusunokimasahige Posted December 13, 2006 Report Posted December 13, 2006 must have been written in MAC, since my windows (WITH Japanese fonts) shows a garbled page........ KM Quote
John A Stuart Posted December 13, 2006 Report Posted December 13, 2006 Hi KM, It shows up fine on my computer. Is this a case of the not enabled Javascript function? John Quote
Stephen Posted December 13, 2006 Report Posted December 13, 2006 正宗はいなかった? 上 この論文は、日本経済新聞の日曜版に「美の美」として3/11/18より三週に渡って上、中、下として三回に渡って連載されました。正宗について一般の方にも解り易く、視野の広い立場で論証されていますので転載させて戴きました。 戦争のたびに叫ぱれた不在論犬奏騒秋まで加わって自熱。 正宗は、後世の浄瑠璃や講談本でもその名工・名刀ぶりがもてはやされ、刀鍛冶(かたなかじ)のシンボルのような存在である。ところが、この人物は明治以降、何度かその正体をくらましかけて世の中を騒がせた。 本題に入る前に、刀と正宗に関する逸話のいくつかを見ておこう。「受難の村正」という講談話がある。正宗の後継者選びが主題だ。正近、貞宗、村正という三人の弟子が鍛えた刀を川に刺し、上流から流した藁(わら)くずが刃に当たったその様子で刀の良しあしを判定したという話である。 結局、貞宗が跡継ぎになるのだが、肝心なのは、切れ昧だけにこだわる弟子の村正をしかる正宗の奮葉である。 「そもそも、刀匠の念願とする銘刀は切れるばかりが目的でない。小にしては一身を守り、大にしては天下国家を護(まも)るべきが刀の使命。いたずらに殺気を帯び凄気(せいき)を浮かべて剣の美を失うものは悪剣妖刀(ようとう)といって名刀とは言わぬものじゃ」(『講談全集」大日本雄弁会講談杜版) いささか大時代的な話だが、刀工の覚悟が端的に言い表されている。よく鍛えられた刀の持つ力については、古く『源氏物語』の夕顔の巻にある。夕顔との逢瀬(おうせ)の時、光源氏のまくら元に美しい女が座って恨み言を言うので気味悪く思った源氏が「刀を引き抜きて、うち置き給ひて」もののけを退敵させたという。近代では泉鏡花の話。刀剣研究家の福永酔剣氏によると、泉鏡花は新たな小説に取りかかる前には、家人の寝静まるのを待って机の前に座し、秘蔵の刀を抜き放った。そして鑑刀の三昧(さんまい)境の末、一気呵成(かせい)に書き上げるのが常だったという。 写真説明 葛飾北斎「正宗娘おれん 瀬川菊の丞」 (細判版画・部分、東京国立博物館蔵) 正宗が主人公の「新薄雪物語」に取材 した役者絵。正宗は「本朝孝子伝」な どにも取り上げられさまざまな芝居の 主人公になった。 中国・北宋時代の政治家で、優れた学者としても知られた層宋八家の一人、欧陽脩(おうようしゅう・一〇〇七-一〇七二年)は日本刀を詩にうたった。その「日本刀歌」の一節には、「最近、宝刀が日本国から出て、越の商人がこれを大海の東で手に人れた。(中略)百金でもって好事家の手にはいったが、これを佩(お)びていると災いをはらうことが出来る」(松枝茂夫編著『中国名詩選・下』岩波文庫)とある。 詩人の直感が「災いをはらうことが出来る」とうたわせたのだ。「日本刀」といつ言葉は「日本画」と同様比較的新しく、初出は幕末以降という。宋の詩のタイトルにみる「日本刀」は八百年ほども古く、用例のさきがけかもしれない。わが国での早い例としては、一九〇〇年に新渡戸稲造の著した『武士道』がある。原文は英語だが、刀工は「心魂気迫(きはく)を打って鍛錬鍛冶」し、日本刀は「美術の完壁(かんぺき)」なものと述べている。一方、正宗という名前が抜群のネーミングである。日本酒の名前に正宗が多い。平成十一年の時点で百五十四銘柄にあるという。元来は、天保時代に摂津の酒造家がつけた日本酒の酒銘だった。正宗(せいしゅう)が清酒(せいしゅ)に通じること、名刀正宗から酒の昧の「切れのよさ」をも加昧してつけられたという。ごろ合わせついでに言えば、正宗は隠語の世界にまで登場する。破れやすい織物のことを指す。 「よく切れる」からである。 仏教で「正宗」といえば「初祖から伝えた宗派」のこと。転じて「正しい標準とすべきものの意に用いられる」(『大漢和辞典』)。中国大陸の各地を歩くと正宗という言葉にしばしば出くわす。「正宗○○料理」という幟(のぼり)や看板が、古い街道沿いに林立していたりする。中国語で正宗は、「本場」とか「正統」の意昧である。 正宗というキャッチコピーはまさに天下無敵。刀鍛冶の宗主を自任するような名で、いかにも師と仰ぐにふさわしい響きがある。どんな刀工の名よりも立派である。 昔から世問周知のビツグネームだった刀工、正宗が「いなかった」という、正宗抹殺論は明治以降、三波にわたって巻き起こった。いずれも、その直前にぼっ発した日清戦争、日露戦争、満州事変と無縁ではなかった。戦争となれば軍刀に関心が集まる。それを引き金にして巷(ちまた)・では刀剣愛好熱が燃え盛った。そこへ格好の語題づぐりとしてい火に油を注ぐかのように正宗不在論が台頭した。 最初の火付け役は、宮内省御剣係だった今村長賀(ながよし)である。彼こそ、徳川三百年の聞に培われた天下無双の正宗像を、一変させた張本人だった。今村は明治二十九年七月三十日から八月一日まで、三回にわたって「涼宵清話」なる談話記事を読売新聞に寄せ、そこで正宗を徹底的にこき下ろした。 彼はまず、御維新後の諸国大名が東京に集まっていたころに、天下の名刀利剣の大抵は「眼(まなこ)を通した」と大見えをきってみせた。ところが、その中になかったのが刀に「正宗」と銘の切ってあるいわゆる在銘の正宗で、「これが正宗というちょるのは皆無銘で、たまさか在銘のものがあれば、それは皆擬物である。正宗という奴は婦女子にまで知られた徳な奴じゃが、在銘でこれが正宗といって信用すべきものはげに一本もない」と、既成の正宗像を一刀両断にした。 そして、正宗一派の刀の形体は「幅は広く切っ先は鋭く樋(ひ)や彫り物はあり、かつその焼き刃は大きうて見事」だが、「刀剣品格」は極めて下卑たものだと言い、「正宗はいにしえの名剣の形を破った」「高尚なる古名剣の形を一変して、極めて下卑たるものとした」と決めつけた。 その矛先はさらに、豊臣秀吉と刀の鑑定を業とする本阿弥家に向けられ、「豊臣太閤が政略的で、本阿弥家をして正宗なるものをこしらえさせたのではないか」とまで言った。つまり、正宗と鑑定されているものには貞宗、信国、兼光などの出来のよいものを正宗に極め直したものが多いというのである。秀吉が本阿弥家に言い置いて、諸国の大名の人心収らんのための最上の褒美として、正宗をこしらえさせたのではないかとみた。 もちろん、これに対して本阿弥家側は本阿弥光賀らが強く反論。今村の論を「正宗抹殺論」と呼んだので以後、その名が付いた。さらに瑠璃(るり)山人なる者がこの論争に割って入った、後の首相犬養毅だっち、役者がそろって議論は白熱。なお十人を超える論客が賛否両論を戦わせたが、結局は乱戦状態で決着はつかなかった。 写真説明 短刀 無銘 正宗(名物庖丁正宗) (国宝鎌倉~南北朝時代・刃長21・8㌢、永青文庫蔵) 極端に身幅の広い造り込みの短刀。地鉄(じがね)の 鍛えの沸(にえ)づいた肌目が美しく、放胆な刃文も 見事。関ヶ原の合戦の立役者の一人、安国寺恵えい の所持品だった。表は素剣に爪の彫り物。裏には凡字 の彫り物。 次いで、日露戦争をうけて、正宗に疑問を投げかけたのは『刀剣と歴史』主幹の高瀬羽皐(うこう)だった。東京日々新聞に「刀剣談」を連載、正宗に関する疑問点十カ条をあげて論陣を張った。「正宗は世に言う名人ではなく、鍛錬については研究もし発明もあったが、とりわけ門人の養成にすぐれたひとで、腕前は名人とはいえない」というのが彼の結論だった。 こんな「正宗観」が昭和まで持ち越されたが、満州事変のぼっ発でまたまた刀剣熱が燃え上がった。雑誌『歴史公論』が昭和八年十月号で日本刀特集を試みた。このとき、岩崎航介という人が『新札往来』という南北朝時代の権威ある新資料を手に論陣を張った。この本は貞治六年(一三六七年)に素眼法師という人によって著されたもので、いわば庶民用の初等教科書だった。 年代も正宗のころからはそう遠く隔たっておらず、「近代の太刀・刀の名人」として『新札往来』は、山城鍛冶に次いで相州の「新藤五国光、行光、正宗、貞宗」の名を記していた。少なくとも南北朝中期ごろには、正宗などの一党が太刀・刀の名人として庶民にまで知られていたこどがわかり、議論も一応の決着を見たのである。 さすがに、平成の世に正宗抹殺論はそぐわないが、存在を疑う空気は完全に払拭(ふっしょく)されたのだろうか。来年一月五日から、静岡県三島市の佐野美術館を皮切りに全国四会場で、正宗の名作とその系譜の名刀約五十点を集めて開く「特別展正宗~日本刀の天才とその系譜~」が、一つの問題提起の場となるのかもしれない。 同美術館館長で刀剣研究家の渡辺妙子氏はいま、正宗像について一つの新しい仮説を抱いている。つまり、日本が中世に遭遇した最大の国難だった蒙古襲来が、正宗とその刀を生む引き金になったのではないかというのだ。詳しくは次回に譲るが、「鎌倉末期から南北朝時代にかけての人とされている正宗は、直接、文永、弘安という二度の蒙古の襲来に立ち合ったわけではない。しかし、時の幕府は、三度目の来襲を恐れ、全国の名だる寺院に外敵調伏の触れを出した。正宗一派の刀がその加持祈とうに用いられた可能性がある。正宗に無銘の刀が多い謎もそこから解けるかもしれない」という。文・竹田博志 写真説明 蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば) (下巻・部分、縦39.7センチ、宮内庁三の丸尚蔵館蔵) 文永、弘安の役で奮戦した肥後国の御家人、竹崎季長 (たけさきすえなが)が戦功の記録に描かせた絵巻。 弘安の役の折、赤糸威(おどし)の大鎧(おおよろい)に 太刀を佩(は)いた季長の出陣姿。正宗は、蒙占襲来の 騒然とした世情の申し子のように一時代後に世に出た とみられる。 Quote
kusunokimasahige Posted December 13, 2006 Report Posted December 13, 2006 Stephen 殿、 本当 に ありがとう で ござります。 楠軒 政鬚 Quote
Stephen Posted December 13, 2006 Report Posted December 13, 2006 正宗はいなかった? 中 正宗はいなかった?中(13/11/25号より) 家名かけ刀と対峙した目利き無銘は修験道の祈りと関係か 武器とのしての刀を観賞の対象として本格的に集め始めた大立者が豊臣秀吉だった。銘もない正宗刀を強力に世に送り出したのは、秀吉とその目利き指南、本阿弥家の人々である。 正宗の刀はほとんどが無銘である。 長尺の太刀などの、銘のある茎(なかご)の部分を切って短くすることを「磨(す)り上げ」というが、正宗にはこの磨り上げ刀が多い。一般的に、確とした在銘刀は前回紹介した「不動正宗」に「大黒正宗」「京極正宗」という異名を持つ三本の短万のほか、来年一月から三島市の佐野美術館で始まる正宗展に特別展示される徳川美術館の短刀ぐらいとされる。徳川吉宗が本阿弥光忠につくらせた古今の名刀録『享保名物帳』に載る正宗が三十九本(他に焼身が十八本)もあるのを考え合わせると、異例の少なさである。 銘もない刀の、一体どこをどう見て作刀家の名を極めるのか。雲をつかむような仕事の巧者が、刀の目利きといわれる人たちだ。古く『増鑑』には後鳥羽天皇(一一八〇~一二三九年)が鑑刀に優れ、「道の者にもやや立ち勝りて、かしこくおはしませば、御前にてよきあしきなど定めさせ給(たま)ふ」とある。この時代には既に「道の者」、つまり刀剣の鑑定を事とする者がいたことが知れる。鑑刀の手引きともいえる現存最古の刀剣書は『観智院本銘尽(かんちいんほんめいづくし)』と呼ばれるもので、その一部は正和五年(一三一六年)の作という。他の美術工芸に先駆けて、刀剣の鑑定研究の書物が現れたのである。 それでは、目利きたちはどのように刀と対時(たいじ)したのだろうか。 ここに、本阿弥光悦一族のことを記した『本阿弥行状記」という書物がある。 光悦(一五五八一六三七年)の孫に当たる光甫(こうほ)らが書いたとされる。その一節は語る。 「本阿弥は家の目利きに落ち度のなき事は、十二、三の時より一言も残らず相伝をうけ、(中路)一腰(一刀)を十日も二十日も手に持ちて、骨髄を見ぬくべしと心懸(こころがけ)」「親兄弟よりも名人になるべしと精を出す……」(一部表現を改めた) この文の後には、よそに目の利く人があったとしても、本阿弥の千分の一秤度しか刀脇差しを見ていないはずだ。正宗を一腰、吉光を三腰、義弘を一腰見たという程度では話にならない、と言っている。恐るべき白信である。「(本阿弥家の者は)日本国の刀脇ざしの中に住みて見る」ともある。 本阿弥家は刀剣の研磨、鑑定を家職とする名家で、初代、妙本は刀剣の奉行として足利尊氏に仕えたという。光悦の従兄に当たる九代目の光徳(一五五六~一六一九年)は、本阿弥家中興の祖で、優れた鑑識家として天下にきこえ、豊臣秀吉の鑑刀のよきアドバイザーだった。 太刀を磨り上げ、磨り上げ刀を鑑定し、作者を極め、その名前を茎に金象眼で人れることを始めたのは光徳である。左ぺージの一刀は、光徳が正宗と鑑定し「城和泉守所持正宗磨上本阿(花押)」と金象眼の銘を入れたもの。短刀に名作の多い正宗の、長寸のものの典型作であり代表作である。 やや細身ながらジュン常な鎌倉様式を示し、地刃などに正宗の刀の妙昧が余すところなく発揮された名刀である。 『行状記』には「正宗」の名が折に触れて出てくる。例えば、権現様(徳川家康)秘蔵の正宗の脇差しを、光徳が御前で拝見した際、これは「焼き直し」の刀だと言下に言い放った。すると家康は、足利尊氏の添え状まで付いたものなのに、とご機嫌が悪くなり、出入り差し止めを食ってしまった。以後は専ら息子の光室が召し出されたという。同書は、御前であるのに「何の用にも立たざるものと申し上げらる程潔き人はまれなるべし」と目に曇りない光徳が、節をも曲げなかったことをたたえている。鑑定に一切の私情を挟まない厳しい姿勢を伝えている。 刀に付随する「代金子千枚」などと代付(価格を決めること)を記した紙を「折紙(おりがみ)」というが、秀吉により刀剣目利所としての本阿弥家のみに発行が許された。折紙の背紙に捺(お)された二重枠の中に「本」の字を刻んだ角印は、光徳が太閤から賜った物という。「折紙つき」という言葉はここから生まれた。 源頼朝が幕府を開いた相模の国・鎌倉に刀の名工が出たのは、鎌倉未期以降とされる。鎌倉中期には、京都や備前などの刀鍛治(かじ)が隆盛を極めていた。京都の粟田口派の国綱が、建長のころ執権、北条時頼に召されて鎌倉の地で作刀したという。その後、鎌倉鍛冶の祖となったのは新藤五国光で、右ぺ-ジ(ここでは左写真)に掲げた永仁元年(一二九三年)の年紀の作がある。 古書にいう国光の刀の地肌は「いかにも濃(こま)やかに練れたる肌にて、地色底黒目にて上青し。刃色底青めにて上うきやかに白し。にえ濃やかに多し。真砂をふるいかけたるが如し。はぜやかにきらめきあり。いかにも気高し」(『元亀本銘』)とある。 この国光の弟子に五郎正宗がいた。 写真説明 沸(にえ)と匂(におい) 鍛え上げられた日本刀は「沸出来(にえでき)」と「匂出来(においでき)」に大別される。 沸や匂は、焼き人れによってできる鋼のいちばん硬い微小組織のうち、凝結の粒子が 目に見えるほど粗いのを沸と呼び、一つ一つとしては見えない細かな微粒子を匂という。 「刃をすかして見ると秋の夜空に輝く星のようにきらきらして見えるのが沸 で、ぼっとかすんで天の川を望むような感じのものが匂」(刀剣研究の大御所、故佐藤 寒山氏の言葉)と表現される。金筋は沸がつながって刃の中に光って見えるもの。それ が刃以外の地にあるめを地景という。冶金学ではこの紬織をマルテインサイトとかト ルースタイトと呼んでいる。正宗など鎌倉一流の刀は沸出来が多く、備前ものは匂出来が多い。 一説に本阿弥光徳の手になるともみられている刀剣の目利き書『解紛記』には、正宗に関する記述が詳しく出ている。「正宗は鎌倉一流を作り出して惣師となる。されば此作の出来何(いず)れにすぐれ、地肌などもいかにもこまかに、底ひかりしてうきやかにすみ入り……」などと述べている。国光の「底黒目」や正宗の「底ひかり」という評言が目につく。地の黒い底光りが「鎌倉一流」の一つの特徴だった。 正宗は、諸国の作刀技法を研究した上で鍛刀法の大革新を行ったとみられている。それまでの、京や備前の刀に見る刃文が大和絵に例えられるなら、 『正宗の刃文は「雪舟の水墨画、ことに破墨山水を思わせる」と佐野美術館の渡辺妙子館長は語る。 刀剣研究家の小笠原信夫氏は「正宗の、焼き崩れの妙昧といえる激しい沸(にえ)の作風は、整然とした備前刀の刃文とはまさに逆の美で、この沸のよさ、地景、金筋などと呼ばれる刃や地鉄(じがね)に見える見所が理解できないと正宗のよさはわからない。正宗をはじめとする相州の刀を見るには数段の高い鑑識眼がいると思う」と語る。秀吉と本阿弥の一統が、正宗の美点をいち早く見いだしたのは、さすがというほかない。秀吉に次いで、正宗を強力に推したのは徳川家康だった。 それにしても、なぜ正宗は銘を切らなかったのだろうか。一説には、自分の刀は、それまでのものとは面目を一新したもので、だれが見ても正宗作とわかるだろうから、ことざらに銘を入れなかったのだ、という。しかし、これはいささか牽強付会(けんきょうふかい)に過ぎるように聞こえる。 渡辺館長は今、正宗ら鎌倉一流の作刀のナゾを解く新たなカギとして、上古の鍛冶集団の一つで、奥州・一関辺りを中心に活躍した「舞草(もくさ)鍛冶」の存在に注目する。平安末期の奥州・藤原秀衡の御所から発掘された刀子の片面を研いだところ、その地刃の沸のつき方が鎌倉一流を思わせたという。源頼朝によって、平泉・藤原氏が滅ぼされると、舞草鍛冶の大半は、鎌倉をはじめ全国へ散り、各地の鍛冶に影響を与えたとも見られている。 舞草の一統の中には月山鍛冶など、修験道と関係深いものが多い。正宗一派の作刀に修験道も関係するのではないか-渡辺館長の仮説の一つだ。鎌倉鍛冶の草分け、新藤五国光一門が刀を作り始めたのは、文永(一二七四年)、弘安(一二八一年)の両役からやや時を経た鎌倉末期。そのころ、三度目の蒙古襲来の風説におびえた幕府は、正応二年(一二八九年)の鎮西諸国の杜寺を手始めに、何度かにわたって異国降伏の祈とうを命じた。さらに正応五年(一二九二年)、幕府は醍醐寺の権僧正、親玄に異国降伏の祈と うを命じた。 右ぺージ(ここでは左写真)の太元帥明王像は、醍醐寺に伝わるまさに鎌倉から南北朝時代にかけての画像のひとつで、護国や怨敵(おんてき)調伏のために行われる秘法「太元帥法」の本尊である。親玄の行ったと思われる祈とうとこの画像の関係が連想されるが、その祈とうの場に霊剣の供えられていた可能性を渡辺館長は推測する。 正宗ら鎌倉一流の刀剣が、修験の祈りとどんなかかわりがあったのだろうか。 修験道と刀剣の関係について考察した伊藤満氏の著書『刀剣に見られる梵字彫物(ぼんじほりもの)の研究』には「刀工と修験道の関係」という副題がある。伊藤氏は、新藤五国光から始まって正宗や貞宗らの刀に彫られた彫り物を分析している。鎌倉刀に彫り物が目立って多いのである。 正宗には「名物観世正宗」に梵字と剣などが彫られ、「庖丁正宗」(永青文庫蔵)には不動の梵字、「大黒正宗」には梵字と剣、「向日正宗」や「九鬼正宗」には護摩箸(はし)などが彫られている。国光の弟子で彫り物の名手と伝える大進房祐慶も、師や正宗などの刀に彫り物をしているが、彼は出羽の山伏とも日光山法帥ともいい、修験道との関係が示唆されている。 正宗の子説、弟子説がある貞宗になるといっそう彫り物が多くなる。伊藤氏は数多い貞宗の梵字の彫り物から「貞宗が修験として儀軌に精通した素養豊かな人物であったことがうかがわれる。貞宗の梵字はいずれも書体が美しく見事」と述べている。 鎌倉鍛冶の刀が霊剣としての意昧合いが強ければ強いほど、個人の銘などは不要ではないかという見方も出てくる』蒙古襲来の暗雲渦巻く鎌倉に鍛えられ、その雲晴れた桃山の眼が見いだした正宗刀。正宗は、その無銘ゆえに史止最も高名な刀工となりおおせたと養豊かな人物であったことがうかがわれる。貞宗の梵字はいずれも書体が美しく見事」と述べている。 鎌倉鍛冶の刀が霊剣としての意昧合いが強ければ強いほど、個人の銘などは不要ではないかという見方も出てくる。蒙古襲来の暗雲渦巻く鎌倉に鍛えられ、その雲晴れた桃山の眼が見いだした正宗刀。正宗は、その無銘ゆえに史上最も高名な刀工となりおおせたとも言えるのである。文・竹田博志 Quote
Stephen Posted December 13, 2006 Report Posted December 13, 2006 正宗はいなかった? 下 正宗はいなかった? 下(13/12/2号より) 抹殺論を超え時代とともに出世 幽玄美の道を現代刀工も追う 時代を追って正宗は出世した。評価が上がっていたのである。明治の「正宗抹殺論」以後は少し足踏みしたが、そんなことをよそに正宗の美を追いかける刀匠の挑戦は今も熱く続く。 写真説明 歌川豊国(三代)作「正宗湯かげんの旧図」 (大阪錦絵 三枚つづき、36.9×76.7センチ、江戸時代) 中央が正宗。左に国俊、右に団九郎が向う槌を振るう。 豊臣秀吉がとり上げ、徳川家康が育てたともいえる正宗だが、秀吉以前にもそれなりの評価はされていたようだ。織田信長や秀吉に仕えた桃山時代の茶人、津田宗及の『宗及他会記』の天正八年(一五八○年)三月二十二日の記録に正宗が登場する。上様(信長)の御前で御脇指(わきざし)十四腰、御腰物八腰が振る舞われたとある。茶事に信長を客として招き、当時の名刀を並べたのである。 脇指では薬研透(やげんすかし)吉光、無銘藤四郎、アラミ藤四郎などの名のある吉光にまじって、上龍下龍正宗、大トヲシ正宗の名があり、腰物分として正宗(ウチイ五郎入道)が記されている。ウチイは「氏家」のことといい、五郎人道は正宗の別称である。 この刀は「油屋に質に入っている」との記述も目を引く。正宗がその当時、商人によって値踏みされていたことのあかしであろう。 『信長公記』は、織田信長の祐筆(ゆうひつ)、太田牛一の著書だが、正宗に触れた記述がみられる。前述の記事の翌天正九年(一五八一年)七月二十五日の項に、信長は安土城で長男信忠に「正宗」を、二男信雄に「北野藤四郎吉光」を、三男信孝に「しのぎ藤四郎吉光」を与えた、とある。翌年、信長は本能寺でその生涯を閉じた。 ちなみにやや古い室町時代の刀剣書『能阿弥本銘尽(のうあみほんめいづくし)』(文明十五年=一四八三年)によると、京都での藤四郎吉光と正宗の評価は、吉光が万疋(まんびき)に対して正宗は五干疋であった。『信長公記』に至って両者の価値は逆転した感がある。 正宗に関する資料は、刀剣の専門書はいざ知らず、一般の古書にはあまり登場しないが、他の刀工に比べれば記述はかなり多い方だという。最も古い記述は、前々回にも述べたが貞治六年(一三六七年)に素眼法師が著した大衆向けの初等教科書ともいえる『新札往来』である。少なくとも南北朝中期には正宗ら相州の一党が、作刀の名人として広く庶民にまで知られていた。 一条兼良(一四〇二-一四八一年)の選といわれる『尺素(せきそ)往来』は、『新札往来』のいわば増補改訂版で室町時代の初等教科書だが、ここに国光と正宗は一代の達者で「不動の利剣に異ならず、所持や贈呈にするもの」とある。応永二十三年(一四ニハ年)の書という『桂川地蔵記』や故実家として知られた伊勢貞頼宗五が大永八年(一五二八年)に書いたという『宗五大艸紙(そうし)』などにも正宗の名があるという。 時代とともに正宗は出世していく。 室町期の『奉公覚悟之事』に、進物になる名物として、古備前派の両雄、正恒と友成の次に粟田口藤四郎吉光がきてその次に正宗の名がある。名工、国吉や後烏羽院の御番鍛冶(かじ)の久国よりも前である。序列順に書かれたとばかりは言えないが、「正宗がかなり格上げされた感じがする」(渡辺妙子佐野美術館館長)という。 その後も、宗及の茶会記や『信長公記』に登場した正宗は、さらに前回記したように『本阿弥行状記』に現れる。 本阿弥家の家伝書ともいうべき書物である。本阿弥光徳が"舌禍事件â€で徳川家康のご機嫌を損ねた後は、子の光室が専ら家康担当となったことが書かれている。この光徳が毛利輝元に与えた伝書ともいう『光徳刀絵図』に載る六十六口の名刀の中に、正宗は四口に過ぎない。どうやら光室が家康に抱えられたころから正宗への執心・傾倒は強くなったようだ。 本阿弥光忠が享保年問に書き、将軍吉宗(一六八四-一七五一年)に差し出したという『名物牒(ちょう)』は一般に『享保名物牒』と呼ばれるが、ここには四十一口(焼け身は十八口)の正宗が載っている。いかに江戸期に正宗が大出世したかがわかる。 ■ ところが、明治以降になってからの正宗に対する扱いは冷ややかだったとしか言いようがない。初めて戦前の旧国宝に指定されたのは、一九三六年(昭和十一年)。刀は前回紹介した「城和泉守所持」銘のものだった。ほかの刀工の名刀が明治時代以来いくらも旧国宝に指定されてきたことを考えると、意外なほど遅い。「正宗は存在しなかった」という今村長賀(ながよし)らの「正宗抹殺論」の余波がなお尾を引いていたのである。 平成の今、正宗を追う人々がいる。 正確には正宗の美を追う現代の刀匠たちである。この相州鍛冶の統領が世に出たといわれる鎌倉末期から約七百年という遠い昔の美に挑む。「古人が(正宗のような)あんなに素晴らしい物を残してくれた、そのことを思うと言葉がみつからないほどの感激です」と語るのは現代作刀界の第一人者で人問国宝の天田昭次師、七十四歳。 「昭和十五年の人門以来、全国に伝わるさまざまな鍛法を学び、作刀して六十年余。私に残された最後・最大の目標が正宗です。正宗を見る刀の放つ幽玄美に心を奪われてしまう。どうしてこういう世界が生み出せたのか。地鉄(じがね)と刃に見られる激しい変化の妙昧に酔いしれる。それまでの古備前や山城の刀の持つ端正な美しさとは打って変わって、正宗の美しさは豪放自在。自由なものが感じられます」と言う。 正宗の刀の持つ美の「自由自在」さについては、刀剣の古伝書の一つ『解紛記」(慶長十二年=一五〇七年)が四百年も前に「全体としてわざとらしい焼き刃が一切ない」ということを強調している。『解紛記』の著者は、本阿弥家中興の祖で希代の目利き、本阿弥光徳ともいわれている。現代鑑刀界の大御所の一人だった本問薫山も「鎌倉物の見所には焼刃つくろわずして自然の体なり」と補注を加えている。 鉄という錆(さ)びやすい金属を、鍛え、研いで金やプラチナよりも品格と光輝ある造形物に仕立て上げたのが日本刀である。刀の姿、地鉄の味、刃文。この三者が一体となって刀の美を形作る。刀身というカンバスに、刀工はさまざまな絵を描くのである。それが地鉄にゐる鍛え肌の美であり、焼刃の刃文の美しさである。 戦後、作刀は美術工芸の一分野としてかろうじてその命脈を保ってきた。 人問国宝だった今は亡き刀匠、隅谷正峯師は「鎌倉を攻める」という言葉が好きだった。鎌倉時代の鍛法を完全に復元できなければ、鎌倉時代の刀の美しさは生み出せないと語っていた。 「鎌倉時代の刀の地鉄を追おうとするなら、鎌倉の刀工のやり方を見つ出し再現するのが一つの道であるが、それがもはや皆目見当がつかない」(『私の履歴書』)とかってつづった。 天田師もいう。「私たちは作刀法の模索はそれこそしらみつぶしにやってきた。あらゆる試行錯誤を繰り返してきたが、鎌倉への道は遠い」と語る。 ■ 『新薄雪物語』は、正宗を主人公にした芝居の一つである。寛保元年(一七四一年)の竹田小出雲らの作。子を思う正宗の情愛が主題だが、作刀の秘伝が隠れたテーマになっている。古来、作刀にはさまざまな秘伝があって、今でいう企業秘密扱いされていた。物語は、若き正宗が京都の名工、来国吉に弟子人りし、一子相伝の鍛法の秘密を伝授されたところから始まる。 鎌倉に戻り希代の名工となった正宗のもとに、名を秘して師の旧吉の孫、来国俊が弟子入りする。国俊は、親の国行が殺され、断絶した鍛冶の家を再興しようと正宗に入門したのである。正宗は国俊の志に感じて、実の子の団九郎にも伝授していない焼き人れの時の湯の「湯加減」の秘伝を国俊に伝授した。 おりしも、幕府から刀の注又が来て、正宗は国俊と団九郎を向こう鎚(づち)に鍛錬し焼き入れをした。そのとき団九郎はここぞとばかり、湯加減を知ろうと湯船に手を入れた。その刹那(せつな)、正宗はわが子の手を切り落とした。団九郎は悪事の仲問に入っており、来国行殺害の一昧だった。息子に湯加減を教えなかったのは、さらに悪事に使われることを恐れたためだ。しかし、これを機に団九郎は改心し命拾いをするという筋書きである。右ぺージに示した三代豊国の版画『昔々正宗湯かげんの旧図』はその場面を描いたものだ。この歌舞伎をきっかけに、名工正宗は、江戸の町民にも親しまれるようになった。確かに湯加減や焼き人れは、作刀の急所の一つとして難しいものがあるようだ。例えば隅谷師は、真っ赤に熱した刀身を水中につっこむ焼き入れの仕事は「○・二秒の勝負」(同)と呼んで、一気阿成(いっきかせい)の重要性を力説していた。 無銘の刀が多いことから始まった「正宗抹殺論」は一刀の美をどう見るかという点で革命的な一石を投じたといえる。日本刀は基本的には在銘のものを基準にしてその真贋(しんがん)や美醜を鑑定してきた。刀剣界の一部には、在銘の正宗よりも無銘のものの方に優作が多いことから、在銘品に頼りすぎる鑑定に疑問を抱く人もいる。さらに、正宗ら相州の刀の持つ美しさに否定的な人がいるのも事実。まさにかつて、今村長賀が正宗を一備前の刀などに比べて品格が落ちる」となじったのと似たような言い方である。改めて、抹殺論の折の有力な論客だった犬養毅に登場願おう。彼は、正宗を抹殺するのは軽率だと今村をたしなめた。友人でもある彼に「今村氏は備前物を愛好するの余り(正宗など)相州物を排斥する癖がある」と述べ、「備前は自ら備前の妙あり、相州は自ら相州の妙あり。いわゆる同工講なるのみ。山の美は水の美とおなじからずといえども美はひとしく美なり。竹の音は糸の音とおなじからずといえども妙はひとしく妙なり」。 名調子で正宗を守ったのである。 文・竹田博志 Quote
DanBaker Posted December 13, 2006 Author Report Posted December 13, 2006 It doesn't come up on my pc either.... tahnks for posting it up here ! Quote
Guest Simon Rowson Posted December 26, 2006 Report Posted December 26, 2006 Dear Dan, As I've mentioned today on another discussion thread ("It's raining Masamune"), the place where I live in Japan (Kanagawa Prefecture) is actually what used to be called Soshu during the feudal era. The last time I visited Kamakura (not very far away) I was privileged enough to be shown around the forge and workshop of a modern swordsmith called Masamune. This particular tosho and his students actually claim an unbroken lineage from the famous original himself and the business is unsuprisingly called "Masamune Swords". If their claims are founded on fact, and not wishful thinking, then surely they can help you to gather more information about the historical Masamune. I am returning to Kamakura on January 3rd because my in-laws go there annually to receive New Year's blessings at the Hachiman Jinja and so please let me know if you need me to get you any contact details (e-mail, telephone number etc). Happy Christmas and New Year. Simon Quote
Nobody Posted December 26, 2006 Report Posted December 26, 2006 This particular tosho and his students actually claim an unbroken lineage from the famous original himself and the business is unsuprisingly called "Masamune Swords".If their claims are founded on fact, and not wishful thinking, then surely they can help you to gather more information about the historical Masamune. Hi Simon, I think that the shop must be one on the site below. Masamune kogei bijutsu seisakusho (正宗工芸美術製作所) http://www.jtb.co.jp/kokunai/Sight.aspx ... gorytype=4 http://www.navida.ne.jp/snavi/33111_1.html And the smith may be, http://www.kcn-net.org/my_kamakura/mykama_35.html The shop seems to be one of tourist attractions. The smith is Yamamura Tsunahiro (山村綱廣) and he claims himself as 24th generation Masamune. Quote
Guest Simon Rowson Posted December 26, 2006 Report Posted December 26, 2006 Hi Koichi san, Yes, that certainly looks like the place and the smith! (And I agree with you about the "tourist attraction" feel to the business.) I guess it's like the time I met a (seemingly sane) man in England who claimed to be a direct descendant of King Arthur ......another "historical" figure who no-one is sure existed or not! At least Masamune (or his school) left a few signed tanto around that seem to back up the argument he was a real person but as to a 24th generation in present day Kanagawa....I'm not sure! Simon Quote
Guest Simon Rowson Posted December 28, 2006 Report Posted December 28, 2006 Dear Dan, I guess you are fully aware of this already but, for a fantastic article about Masamune and his blades, please see Guido's masterly piece which was originally written for the thread concerning the missing Honjo Masamune and which is now in the NMB Archive. I learned a great deal from it! Happy New Year, Simon Quote
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